天満宮とは、菅原道真(スガワラノミチザネ)の霊を神格化した、天満天神(天満大自在天神とも)を祀る神社である。天神社とか、天神さまともいう。京都の北野天満宮(元官弊中社北野神社)をはじめ、大阪市北区の天満宮(元府社)、福岡県太宰府市の太宰府天満宮(元官弊中社太宰府神社)などのほか、全国各地に祀られ、学問の神として広く信仰されている。
「天満」という名称に就いては、後で述べる「火雷天神」の怒りの焔が「天に満ちたり」ということから、生まれたのであろうという説と、そのほか色々な説がある。
菅原道真(845-903)は平安時代前期の学者・政治家として卓越した人で、菅原是善(スガワラノコレヨシ)の子である。菅原家は代々学者の家柄であった。道真は宇田天皇に仕えて信任を受け、寛平6年(894年)、遣唐使に任命されたが、その廃止を建議し、以後遣唐使は廃止された。醍醐天皇の昌泰2年(899年)、天皇が藤原氏の勢力を抑えるために重用され、蔵人頭(クロウドノトウ)から遂に右大臣に昇進した。この異例の昇進を妬まれ、延喜元年(901年)、左大臣藤原時平らの策謀による讒言により、太宰権帥(ダザイノゴンノソツ・ダザイノゴンノソチ)に左遷され、同3年(903年)に、配所で没した。道真は、『類聚国史』の編者で、『三代実録』の編纂にも与り、詩文集『菅家文草』・『菅家後草』等がある。また、書をよくし、三聖(弘法大師・菅原道真・小野道風)の一人である。一般に道真のことを菅家とか菅公という。
道真が没すると、京都・畿内に、しばしば雷電・霹靂の災禍が起こった。世人は皆この異変は、菅公の祟りであるといい、朝廷も、正一位大政大臣を追贈し、「火雷天神」の号を賜った。しかし、その後も官公を讒言した者や、その一族の者で、不慮の災厄にあって死ぬ者が多くなり、朝廷も菅公の威霊を非常に恐れた。
朱雀天皇の天慶5年(942年)に、京都の右京七条坊に住む、多治比奇子(タジヒノアヤコ)という女の人が「我は菅原朝臣の霊である。神殿を右近の馬場に造れ。昔我世にあった時、しばしばこの地に遊んだ。今、天神の号を得て国を鎮めたく思っている。故にその地に住もう」という神託をうけた。そこで仮の小祠を建てて祀った。その5年後の天暦元年(947年)に、再び近江比良の神官、良継の子に神託があったので、奇子・良継及び北野朝日寺の僧最珍らが、現在の地に神殿を移し、「天満神社」と崇めた。その次の神託は「昔右大臣の頃、松が我が身に生える夢を見たが、自分が居ようと思う土地には必ず松を生やそう」ということであったが、事実神殿を造営した後に、松が自然と生い茂ったので、人々は改めて神霊の威力に恐れたという。
こうして、後には賀茂神社や、石清水八幡宮などの大社と共に、二十二社に加えられ、皇城鎮護の神と仰がれるようになり、天皇の行幸を始め大臣公卿の参詣など、歴代の朝廷から崇められ、いよいよその名が高くなった。
その後、全国に天満宮・天神社という名で祀られるようになった。
また、菅公は梅を好んだというので、天満宮・天神社には松と共に梅が植えられ、梅の名所となっている所が多い。