『
神明社』で触れたように、橋本の神明大神宮も、皇大神宮の神霊を祀る神社であるから、こういう神社名がつけられたのであろう。
従って、祭神は天照大神である。古くには、「伊勢宮」ともいわれたという。
創建に就いての確証はないが、伝承によれば、「天保12年(1841年)4月の橋本の大火により、古記録が全て焼失したため、
詳しいことは分わからないが、永禄12年(1569年)1月の創建」という。この年は有名な「三増合戦」のあった年である。
この頃に、橋本に住みついた人々が、神社を創祀する程度の数になったのではともいわれている。
また「三増合戦」・「供養塚」との関係も一考の要があると思われる。
『新編相模国風土記稿』には、「神明宮、香福寺持、例祭七月二十一日」とある。
「香福寺持」とは香福寺が、宗教上の管理をしたという意味である。
例祭は、明治時代になると、同26年(1893年)10月制定の「村内規約書」では
「
大神宮祭典は例年八月二十一日執行する事」とあり、
「
八坂祭典(天王祭りのこと)は、例年七月二十九日より三日間行ふ事」とし、
大神宮の祭りと八坂祭りとは、別の日に行っている。
同33年(1900年)11月18日の部落総会の決議により、翌年より、4月8日の灌仏会(花祭り)の日と変更している。
更に、同44年(1911年)から9月1日に変更された。
大正時代には、同12年(1923年)9月1日の、関東大震災の翌年から、9月1日を避けて、9月2・3日となった。
例祭日が度々変更されているのは、その時々の農・蚕業の在り方と、密接な関係があるようである。
戦後は、農・蚕業を主とした生活形態が、大きく変化したため、現在は、7月末か8月初めの土曜日・日曜日に行われている。
当社の旧社格は、村社であった。明治39年(1906年)8月の勅令220号による、一村一社を基準とする、
神社合併問題により、旧相原村も長い間紛糾を続けたが、大正14年(1925年)に漸く、相原村四社は現状通りということで、
この問題は収束された。
当社は、
2518.99坪(8312.67㎡)の境内に、
拝殿
・
弊殿
・
本殿
・
覆殿
・
神輿格納庫
・
神楽殿
・
御神符頒布所
・
納札所
・
社務所
等がある。
また、境内には、
天満宮
・
大鷲神社
・
稲荷社等がある。
本殿
は、神明造りで1.52坪(5.02㎡)
覆殿
は、疑似神明造りで6坪(19.8㎡)
弊殿
は、平屋で3坪(9.9㎡)
拝殿
は、入母屋造りで8.75坪(28.88㎡)。正面屋根には千鳥破風があり、向拝付きである。
本殿の南側に、杉の大きな古木があって、御神木として崇められていたという。
御神木とは、神社の境内にあり、その神社と何か因縁があるとして、大切にされる木である。
注連縄などが張られ、御神体とされていることもある。後者の場合は、社殿を建て常時神を祀っている形態以前の、
古い祭りの方式では、祭りの日に神が降臨される木とも考えられていた。
この古木も、国道の開通による公害、その他の原因で枯死したが、伐採の際に、
幹に五寸釘が数本打ち込まれているのが発見された。
「丑の刻参り」(憎いと思う人を呪い殺すために、丑の刻[午前2時頃]に神社や寺に参詣することで、
七日目の満願の日に、呪われた人は死ぬと信じられた。白衣で頭に五徳を逆さまにのせ、その足に灯をともした蝋燭をを指し、
胸に鏡をさげ、手に金槌と五寸釘を持ち、相手をかたどった人形を、鳥居や神木に打ちつける。
その姿を人に見られると、効果がなくなると信じられた。主に嫉妬深い女とか、男に裏切られた女のすることとされた。)の際に、
人形を打ちつけた釘だろうといわれている。伐採後の切り株は今でも残っている。
古くには、境内は「お伊勢の森」と呼ばれていて、松の古木を主として鬱蒼とした森であったが、
昭和34年(1959年)9月26日の、伊勢湾台風その他の原因による被害を受けた。
その後復旧のため植林もされて、現在に至っているという。